戦艦大和の運用次第で、太平洋戦争の戦局は覆っていた!

太平洋戦争のターニングポイントとされる戦いにおいて、戦艦大和が効果的に運用されていたら、勝敗は逆転し、日本が優勢となる可能性は高かった。さらに戦術的レベルに留まらず、戦略的活用に踏み切っていれば、大和は世界大戦の帰趨さえ変えてしまう力を秘めていたのである。

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ミッドウェー海戦の IF

 戦後の日本では、大和をして「万里の長城、ピラミッドと並ぶ、三大馬鹿」とまで評する声がある。まさに何をかいわんや。確かに、大和はその実力を発揮する機会を与えられなかったが、それだけを理由に「無用の長物」と批判するのは見当違いも甚だしい。それはスポーツにおいて、出場機会を与えられなかった名選手を、「無能」と断じるようなものだ。

 実際の戦闘において、最強戦艦の大和が投入されていれば、戦局を大きく変えたことは疑いようがない。つまり、大和の問題は全て、いかに用いるかという「運用」に尽きるのだ。

 では日本海軍は、大和をいかに活かすべきだったのか。「歴史に IF は禁物」というが、大和の場合、特に実現性の高いケースが多く、それらについて考察することは、現在に通じる様々な示唆を与えてくれるに違いない。

 実際の戦闘を取り上げるならば、まず、大和の初陣となった昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦である。日米戦争の転換点となったこの海戦で、日本は虎の子の空母4隻を失うという大敗を喫し、以後、劣勢に立たされる。この時、大和を軸とする主力部隊は、空母機動部隊の500キロメートルも後方にあり、ついに戦闘に加わることはなかった。

 これは、機動部隊が敵艦隊に一撃を加えた後に戦艦部隊で止めを刺すという、旧来の艦隊決戦思想に則った戦国序列を重んずるがゆえの配置であった。しかしながら、やはり大和は機動部隊とともに行動させるべきだった。そうすることで、ミッドウェーの最大の敗因である「索敵の不備」を防ぐことができたからである。

 主砲の攻撃力が注目される大和だが、実は、通信設備も極めて充実していた。事実、ミッドウェーの作戦行動中、大和は「多数の敵航空機が行動中」との軍令部特信班からの情報を受信し、アメリカ空母の一部が、ミッドウェー付近で待ち伏せしている可能性のあることを掴んでいる(大和の敵信班が、敵空母らしき符号を傍受したとも)。だが肝心の機動部隊は情報を受信できず、また無線封止中のため、大和から機動部隊に通報されることもなかった。もし大和が機動部隊と行動をともにしていれば、戦局を左右するその情報を、発光信号などで伝えることもできた。となれば索敵に全力をあげることになり、史実のように敵空母部隊の発見が遅れ、兵装転換の間に攻撃されて、空母4隻を失うことなどなかっただろう。

 大和の同行には、もうひとつ大きな利点がある。敵攻撃隊が機動部隊を襲った際、大和が「盾」となったはずなのだ。たとえば低空から魚雷を放つ敵雷撃隊に対しては、空母の手前に大和がいて弾幕を張れば、攻撃を阻止できる。一方、直掩の零戦隊は急降下爆撃隊の迎撃に専念すればよい。つまり、大和の存在によって、敵攻撃隊への対処は極めて効率的になるのだ。

 また、よしんば互角の戦いとなり、日本の空母が米空母と相撃ちになって損傷しようとも、大和が追撃戦を敢行していれば、日本の航空隊が損傷を与えた米空母に止めを刺し、残敵掃討をすることも可能だったろう。いずれにせよ、当時の日本海軍の練度は米軍を凌いでおり、大和が機動部隊とともにあればまず負けることはなかった。



ガダルカナルに大和を投入すれば

 ミッドウェー海戦に敗れた後、日本は反攻に転じたアメリカと、ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って死闘を演じた。昭和17年8月から翌18年2月までの半年間のこの戦いにおいて、日本は圧倒的物量を誇るアメリカに消耗戦を強いられた挙句、撤退を余儀なくされる。

 この間、大和はトラック島に進出していながら、ガダルカナルの戦いに投入されることなく、「大和ホテル」と椰輸されるほど無為に碇泊する日々を送っていた。もし、大和が初期のヘンダーソン基地砲撃から戦闘に加わっていれば、戦局は大きく変わっていただろう。

 昭和17年10月、陸軍はガダルカナルへの高速補給船派遣を決定。海軍はそれを支援すべく、アメリカの航空攻撃を封じるために戦艦金剛と榛名を派遣し、米航空隊の拠点・ヘンダーソン基地に夜間艦砲射撃をさせた。この砲撃は凄まじく、日本陸軍が「野砲千門に匹敵する」と賞賛したほどだった。しかし米航空隊は一部残存しており、金剛と榛名が引き揚げた後、補給船団は米軍の反復攻撃を受けて、壊滅してしまうのである。

 もし46センチ砲を誇る大和が初期からこの砲撃に加わり、たびたび艦砲射撃を加えていれば、米軍は反撃できず、陸軍のヘンダーソン基地制圧作戦も進展していた。もちろん敵航空隊に大打撃を与え、ラバウルからガダルカナルへの長距離飛行を強いられていた日本海軍航空隊の負担も、軽減できただろう。

 実際のガダルカナル争奪戦において、日本海軍は 2076機の航空機を損失し、日米開戦初期に世界最高の練度を誇った搭乗員の多くを失ってしまった。その後の戦局をみても、ガダルカナルにおける熟練搭乗員の損失は痛恨の極みだが、大和を活用していれば、それを防ぐことができた可能性が高い。ミッドウェーでもガダルカナルでも、大和が航空兵力を大いに助ける――そうなっていれば、「航空優勢の時代の無用の長物」などと貶められることもなかったはずだ。

 もちろん、大和は実際の海戦でも実力を発揮しただろう。昭和17年11月の第三次ソロモン海戦において、アメリカは最新鋭戦艦サウスダコタとワシントンを惜しげもなく投入。対する日本海軍は旧式戦艦比叡と霧島で迎え撃つが、両艦とも失われてしまう。しかし大和が出撃していれば、少なくとも両米戦艦にひけは取らず、絶対に負けはしない。アメリカはレーダー射撃を導入していたというが、まだ実用化されたばかりであり、そうそう大和がやられることはなかっただろう。


抑止力として、そして艦隊決戦へ

 以上、実際の戦闘に即して、大和をいかに用いるべきだったかという、いわば「戦術的」運用について語ってきた。だが大和は、日米戦争の帰趨自体を変えてしまうような、「戦略」を左右するほどのカを持った艦でもあったことを、我々は忘れてはなるまい。次に戦略的な活用法を検証してみよう。

 まず、第一の戦略的活用ポイントは、「抑止力」である。日米開戦前夜の当時から、大和型戦艦の存在を公表し、日米交渉に活用すべきという主張はあった。戦艦の本質は「抑止力の象徴」であり、確かにこの意見は一理ある。

 そもそも米海軍は、日米開戦1カ月前の昭和16年(1941)11月1日には、ハル国務長官を中心とする対日強硬派に、可能な限り対日戦争の勃発を遅らせるよう申し入れていた。さらに11月5日、ルーズベルト大統領に、「対日戦争を企図してほならぬ」と開戦に反対している。要するに、「日本海軍には勝てない」と言っていたのである。

 それというのも当時、米海軍はイギリスへの支援に手一杯であり、また多数の艦艇を一気に建造したために熟練乗組員を方々に転出させねばならず、太平洋艦隊の練度が著しく低下していた。米海軍は、これでは日本海軍に勝つのは不可能と考えていたのである。

 このような状況において、大和の存在が公表されていたならば、少なくとも米海軍の意向を汲んで、ハルノートのような最後通牒を突きつけることは延期されただろう。大和に対抗できる戦艦を造るためには、莫大な時間を要する。実は大和建造ではその施設建設に時間がかかっており、アメリカも同様に時間を取られたであろうことは間違いない。

 そうなれば、日本には多くの選択肢が生まれていたはずだ。第二次大戦の転機であるドイツ軍のモスクワ攻略失敗は、まさに真珠湾攻撃と同時期に起きている。もし日米開戦が遅れていれば、日本はその結果を踏まえて、ドイツとの同盟破棄など、さらに取りうるべき手立てを考えることができたかもしれない。

 しかし、それでも日米戦争が起きた場合、大和はいかに用いるべきだっただろうか。第二の戦略的活用ポイントとして、私は真珠湾攻撃をせず、当初の対米戦略どおり、艦隊決戦をすべきだったと考える。

 日本が真珠湾攻撃をしていなければ、アメリカも当初の対日戦略に基づき、マーシャル諸島沖を襲撃しようとしたはずだ。アメリカ人の気質を考えても、米海軍は守りに徹するのではなく、全力で艦隊決戦を挑んできたであろう。だが、そのためにはやはり準備の日数を要する。一方、日本は大和を12月16日に竣工させており、その時期には出撃可能だった。となれば、大和は「日米艦隊決戦」に充分に間に合う。そもそも日本は、大和の完成を待って宣戦布告してもよかった。

 その場合、決戦の帰趨はどうなっただろうか。当時の日米の航空戦力比は、太平洋正面では空母では10対3、航空機では2対1と日本の優勢であった。しかも米太平洋艦隊のキンメル長官は戦艦第一主義者で、航空機搭乗員を「Fly Boy」(蝿少年)と軽視しており、日本の航空部隊に対する備えは甘いと見ていい。また戦艦の砲撃においては、アメリカの決戦距離は約2万メートルで、命中率は3パーセント。対する日本海軍の砲撃の腕前は世界一で、命中率は少なくともその3倍はあった。

 そうした前提を踏まえれば、艦隊決戦が生じれば、日本海軍が勝利したことは疑いようが無い。米海軍はダメージコントロールに優れているので、壊滅こそ難しいだろうが、おそらく艦隊に6~7割の損害を与えることはできたに違いない。そうすれば、アメリカはしばらく反撃できず、戦争は長期化しただろう。アメリカ国民の厭戦気分はいやが上にも増し、その後の戦争の推移は、大いに日本有利になったと考えることができる。



戦局を変えられたインド洋作戦

 大和の有効な戦略的活用ポイントは、もうひとつ挙げられる。それは、インド洋への投入である。真珠湾攻撃の成功後、日本海軍は昭和17年4月に、南雲機動部隊をインド洋に派遣し、セイロン沖海戦でイギリス東洋艦隊を痛撃した。この作戦終了後、日本海軍は大和以下の水上部隊主力をインド洋に投入し、通商破壊作戦に従事させるべきであった。

 連合国、とりわけイギリスにとって、インド洋はアジア、アフリカとヨーロッパを結ぶ交通の要衝で、戦争遂行上、欠くことのできない補給の動脈だった。イギリス本国はオーストラリアからインド洋を経て食糧を、アフリカのイギリス軍は地中海をドイツに押さえられたために、インド洋を通じて軍需物資を得ていた。インド洋はまさにイギリスの命綱であり、それを断ち切ることができれば、イギリスを窮地に陥れ、第二次大戦の帰趨も大きく変わったに違いない。

 しかもこの通商破壊作戦は、極めて成功する可能性が高かった。当時の英海軍は、マレー沖海戦とセイロン沖海戦に敗れ、アフリカへの後退を余儀なくされていた。さらに、英海軍は独海軍に対抗するために、本国や地中海のマルタ島にも戦力を割かねばならず、インド洋に艦艇を派遣する余力はない。

 このような状況で大和と護衛用の小型空母を派遣していれば、インド洋の制海権はまず確保できたであろう。その時、大きな影響が生じるのは北アフリカ戦線である。昭和17年5月から、ドイツのロンメル将軍が北アフリカで快進撃を始めていた。この時、大和を中心とする日本海軍がインド洋を制していれば、アフリカのイギリス軍はロンメルの進軍を阻止できなくなる。やがて、ロンメルはスエズ運河を占領し、中東の石油を確保。さらに、スエズ運河を通じて、日独の中東での連絡も達成され、日本にも中東の石油が送られることになっただろう。

 こうした日独の優勢が続けば、インドとアラブ諸国に与える影響は計り知れない。インドではただでさえ、緒戦における日本の快進撃を受けて、反英闘争が激化していた。そうした状況で日本海軍がインド洋を押さえれば、インドの独立運動は手に負えないほど激しくなっただろう。その独立運動の熱気はやがてアラブ諸斑にも波及し、イギリスが極めて深刻な打撃を受けたことは疑いようがない。

 このように、大和の有効な運用方法は、いくらでもあった。大和は決して「無用の長物」などではなく、個々の海戦のみならず、第二次世界大戦の帰趨をも、劇的に変えてしまう力を持っていたのである。



■ 平間洋一 (ひらま・よういち) 元防衛大学校教授


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Author:諸葛孔明
サラリーマンを辞めて「専業トレーダー」やっています。現在は、配当重視株7割 売買3割でやっています。
(注)「FHファンド」は、個人事業届出時の屋号です。投資顧問業ではありません!

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